印象派といえばモネ、マネ、ルノアールなどが浮かびますし男性画家が殆どですが女性の印象派の画家もいました。
彼女たちは19世紀にどのような状況で印象派の女性画家として絵を描いていたのでしょうか。
比較的恵まれた環境にあった人や夫の嫉妬から絵筆を折った人まで実に様々です。
今回は主要な2人の印象派女性画家ベルト・モリゾ、メアリーカサットの他にエバ・ゴンザレス、マリーブラックモンについて述べられた東京大学名誉教授三浦篤さんの講演やその他の資料を元にその印象派としての絵画の特徴や人生をまとめてみたいと思います。
男性の印象派の画家達については別に書いていますのでページ下のリンクを是非ご覧ください↓
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当時の社会に印象派の女性画家として存在し得たのか
そもそも西洋絵画の歴史を辿っていくと大部分が男性画家であるという事実があります。
唯一女性画家が存在し得たのは「画家一族の一員」として生まれた場合のみでした。
父親が画家であるので娘を画家として育てるということが多かったと言われています。
例えばマリーアントワネットの肖像画を描いたル・ブランです。
私個人的にはこの人とても上手いと思ってます。
昔からその気になれば女性画家になれる才能のある人は沢山いたのではないかと思いますが女性はそもそも美術学校に行くことも許されませんでした。
が19世紀になると画家一族でなくても普通の市民社会から女性画家は少しずつ現れるようになってきました。
しかし19世紀当時それも極めてまれなことでした。
因みにパリの国立美術学校が女子学生を受け入れ始めたのは1897年のことでした。
19世紀末、あと3年で20世紀というときに漸く「プロの画家」になるための女子の入学が認められたのでした。
それ以前は女性の画家はいないことは無かったのですが殆ど素人画家でした。
趣味としてお嬢様の習い事として絵を描くということだったんですね。
この頃印象派の画家を志した代表格がモリゾとカサットでした。
印象派の女性画家のトップバッター ベルト・モリゾ
印象派の女性画家ベルトモリゾ~生い立ち~
印象派は男性画家も生まれ育ちの良い人が多いのですがベルト・モリゾの父親も知事を歴任し、最終的にはパリで官僚として仕事を全うした人で立派なブルジョアの娘でした。
またモリゾ家はロココ時代の画家フラゴナールの家系であるとも言われています。
モリゾと姉は小さい頃から絵に興味を示し、個人教授についてもらっていました。
20歳の頃からは姉と共にバルビゾン派のコローの教えを受け、この頃から戸外での制作を始め、またルーブル美術館に行って模写もしていました。
19世紀の女性画家ベルトモリゾ~印象派への目覚め~
そのうち1868年にモリゾはエドゥアール・マネと出会い、マネの絵画に魅せられます。
その頃からマネは「草上の昼食」や「オランピア」を発表して話題になっていました。
モリゾはその革新性に魅力を感じていたのです。
そして印象派の女性画家として第1回印象派展に出品し印象派のグループに入って革新的な絵画を目指すという画家人生をスタートさせました。
そして当時とても斬新だった印象派スタイルで数々の作品を発表しました。
全体に色彩は淡い感じで緑を基調としたパステルカラーが多く穏やかな作風なのですが筆触はとても大胆で流石印象派の画家だなと思わせます。
モリゾの魅力はやはり柔らかな室内、もしくは屋外にいる女性像で、外には花が咲き乱れ、見る者に非常に幸福感を感じさせるところです。
娘のジュリーを描いた作品などはどんなに娘を愛し、いつくしんでいたかを感じさせますよね。
そしてその幸福感が儚さを感じさせるようなところもあります。
印象派の女性画家ベルトモリゾ~マネへの想いと諦め~
モリゾと知り合った頃マネは丁度モデルを探していて「バルコニー」という絵画のモデルにしその後もモリゾの肖像を数点描いています。
なのでかなり親密な関係だったことは想像できるのですがマネの「弟子」ではありませんでした。
モリゾはマネに男性としての魅力も感じていたと言われ、またマネもモリゾに女性としての魅力を感じていたのではないかと言われています。
ただ手紙などは一切残っていないのではっきりはしないようですがかなり親密だったことは確かなようです。
マネがモリゾの肖像画を描く、というのは数年間続きました。
但しその時点でマネは妻帯者で妻のシュザンヌがいました。
お互い惹かれあいながらもどうしようもないという諦めのなかで1874年、第1回印象派展の年にモリゾはマネの弟と結婚しました。
そしてそれ以降マネはモリゾの肖像を一切描いてないのです。
ウジェーヌ・マネという弟はモリゾの画家としての活動をサポートしています。
ある意味とても幸せだったのかもしれません。
恵まれた環境にあり、お手伝いさんもいて(羨ましいです)印象派の女性画家であったにも関わらず絵を売らなくても生きていけた、という訳です。
印象派の女性画家ベルトモリゾ~描いたモチーフ~
印象派という当時最も画期的な画風を目指したモリゾでしたがやはりそこはまだ19世紀、描くモチーフは限られたものでした。
例えば母子、母と娘、母と赤ん坊など親子や家族を主題にした家庭生活を描く、あるいは家で働く家政婦や乳母、もしくは親しい友人を描くなどです。
友人といっても勿論女性の友人で男性の友人を描くのはタブーでした。
男性といえば夫のウジェーヌ・マネしか描いていません。
当時のブルジョワ女性というのは行動範囲が限られていて、外出するにしても誰か付き添いがいたりしたわけです。
女性画家としての活動が許されていて夫の理解があっても何となく窮屈だったんですね。
モリゾ夫妻は比較的早くに一人娘ジュリーの結婚を見ることなく病気で亡くなりその後マラルメ、ルノワール、ドガがジュリーの後見人となりました。
アメリカ人の女性印象派画家メアリ・カサット
アメリカ人の印象派女性画家メアリ・カサット~生い立ち~
もう一人の女性の印象派の画家として代表的なメアリ・カサットはペンシルベニア州ピッツバーグ近郊のアラゲニン市に生まれました。
父親は実業家で市長にもなった人で土地の名士でした。
ベルト・モリゾ同様恵まれた家庭で育っていますがモリゾと違って美術学校に通っています。
そこで基本的でアカデミックな教育を受けフランスに渡り、パリを拠点に活動しました。
アメリカ人の印象派女性画家メアリ・カサット~印象派への目覚め~
メアリ・カサットはアメリカでアカデミックな様式の教育を受けていましたので最初はきちんとした写実的な様式で描いていたのですがある時ドガの作品に触れて感銘を受け、本人にも会うことができてそこから印象派の世界へ入っていくことになりました。
プロの画家を目指し印象派展には第4回展から参加しています。
印象派展に参加するようになってからのカサットの作品は色彩も明るくなり筆致も生き生きと大胆なものになっていきました。
カサットがよく描いたのは劇場の人物像でしたがカサットもブルジョワ女性だったので描いているのは殆ど女性や子どもです。
ただモリゾと違うところはもっと自律的な、自分の意志を持ったような女性像を描いたことでした。
ボストン美術館蔵の「桟敷席にて」という作品はオペラグラスを持った女性がしっかりと劇場を見ていて「能動的な観る行動」をしているわけです。
このお茶を飲んでいる女性2人も何だかとても意志の強さを感じさせますよね。
それは生涯独身をとおしたカサットらしいところとも言われていますがそれでもやはり母子のテーマが多いのも特徴です。
がその母子像にしても決して感傷に溺れてないようなところがあります。
アメリカ人の印象派女性画家 メアリ・カサット~ジャポニスムからの影響~
カサットの作風は進化していき、後年は印象派からよりシンプルで分かり易いアプローチになっていきました。
構図や平面的な色彩表現など日本の浮世絵からの影響もみられます。
またカサットは版画も制作していましたが版画にはより浮世絵に近い造形表現が見られると言われています。
アメリカ人の女性画家 メアリ・カサット~印象派をアメリカに広める活動~
またメアリ・カサットは印象派の作品をアメリカに広めることに貢献しました。
印象派を扱うデュラン・デュエルと協同してアメリカ人富裕層に印象派作品を勧めるという活動をしたことで知られています。
アメリカ人の女性画家メアリ・カサット~フェミニズム運動~
またハーブ・マイヤーという実業家夫妻との付き合いがあったメアリ・カサットはマイヤー夫人が進めていた女性参政権運動に協力するなど、フェミニズム運動にも積極的でした。
1893年のシカゴ万国博覧会では「現代の女性」という壁画を制作したりしました。
アメリカ人の女性画家 メアリ・カサット~晩年の母子像~
メアリ・カサットは生涯独身をとおしましたが晩年は母子像をより多く描くようになりました。
これは初期の母子像に比べてより象徴的でラファエロを想起させるようなものでした。
何故メアリは晩年象徴的な母子像を描くようになたのでしょうか。
それはおそらく女性がちゃんと女性として子どもを産み育てながらも社会的に自立できるような世の中の仕組みを作らなけらばならないと考えていたからではないでしょうか。
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スペイン系印象派の女性画家~ エバ・ゴンザレス~
スペイン系印象派の女性画家 エバ・ゴンザレス~生い立ち~
エバ・ゴンザレスは1849年パリ生まれですがスペインにルーツを持つモナコのブルジョワ系の女性画家で父親は作家で、母親はベルギー人の音楽家でした。
16歳で美術を学び始めましたが当時パリの公立の美術学校は女性の入学を認めていなかったので、女性の為の絵画教室を開いていたシャルル・シャプランに学びました。
そして1869年にはスタジオを開いています。
スペイン系印象派の女性画家 エバ・ゴンザレス~印象派への目覚め~
エバは1869年にベルギー出身の画家アルフレッド・ステヴァンに紹介されてマネの弟子になりました。
マネはベルト・モリゾを弟子にすることはなかったのですが、エバ・ゴンザレスは弟子にしたのでした。
マネはベルト・モリゾ同様エバ・ゴンザレスの肖像画を数点描いています。
ベルト・モリゾは残された手紙などからこのことにやや嫉妬していたフシがあると言われています。
自分は弟子にしてもらってないのにエバ・ゴンザレスは弟子にしてもらって懇切丁寧に指導してもらって肖像画も描いてもらっている、羨ましい、、みたいな。
2人の女性の間にややライバル意識もあったようです。
がしかし意外と思われるかもしれませんがマネは印象派の画家達と親しく付き合ってはいましたが決して印象派展に出品することはありませんでした。
エバ・ゴンザレスもマネ同様印象派展には出品せず、サロン・ド・パリに出品しましたがそのスタイルから一応印象派の女性画家として認識されていますがそれほど印象派と言われる様式でもなくどちらかというとよりマネに近いと思われます。
というよりマネにかなり忠実で「笛吹の少年」と同じような構図の絵を描いたりもしていますがやはり女性像を中心に描いています。
モリゾはより印象派的な描き方で印象派展にも出品してますので弟子でなかったというのはマネにしてみれば必然だったのかもしれませんね。
エバ・ゴンザレスの作品は最近日本のアーティゾン美術館にも加えられました。
なかなかの美貌であったので印象派の画家達のモデルを務めることが多かったと言われていますがわずか36歳の若さで出産直後に亡くなりました。
人物画が得意の印象派の女性画家 ~マリー・ブラックモン~
夫は版画家の印象派女性画家 マリー・ブラックモン~生い立ち~
マリー・ブラックモンはブルターニュ地方に生まれ父親は海軍士官でしたがマリーが生まれてすぐに亡くなり、その後母親は再婚しました。
モリゾやカサットのようにブルジョア階級のお嬢さまとして育ったわけではなく小さいときに父に死に別れるという苦労がありました。
画家を目指したのも生計を立てるためだったと言われています。
この人が一番プロっぽいですね。
最初の絵画教育は地元の画家で若い女性向けの絵画教室を開いていたオーギュスト・ヴァッソールから受けました。
夫は版画家の印象派女性画家 マリー・ブラックモン~印象派への目覚め~
1857年にサロン・ド・パリに応募し入選、展示された作品はアングルに認められ、パリに移り住み、アングルの弟子になりました。
その後1859年のサロンに出展し、1864年から連続して出展しました。
1867年にルーブル美術館で巨匠たちの作品を模写していたときに銅版画家であるフェリックス・ブラックモンと知り合い、母親の反対を押し切って結婚し、翌年息子が生まれました。
フェリックス・ブラックモンは磁器のデザインをすることもありましたがある日日本の有田焼を目にし、それを包んでいた緩衝材の紙に注目しました。
それが葛飾北斎の「北斎漫画」だったのです。
ブラックモンはその後北斎や広重のモチーフを入れ込んだ食器セットを作り1867年のパリ万博で金賞を受賞し、ジャポニスムの立役者となりました。
マリーは夫と共に磁器のデザインの仕事をしたりしていましたが夫が付き合っていたマネやドガ、シスレーらの画家の影響を受けてアングルから学んだ新古典主義のスタイルから印象派のスタイルに移っていきました。
が夫のフェリックスはそれほど印象派の様式を認めていた人ではなかったと言われています。
一方マリーのほうは印象派の画風を極めていき1879年、1880年、1886年の印象派展に出品しました。
1886年にはポール・ゴーギャンと知り合い、その影響も受けました。
やはり女性像が多いのは他の印象派の女性画家と同じなのですがアングルの指導を受けていたので人物画家としてより本格的でしっかりしていると言われています。
作品のなかでは特に屋外の光の中での白いドレスの印象派的描き方に拘った人のようです。
印象派といえば風景画家も多いのですが人物画家といわれるドガやルノアールにも匹敵するような人物画家として期待できる人だったのです。
作品を見ると本当にこの人は才能ある実力派だと感じます。
夫は版画家の印象派女性画家 マリー・ブラックモン~夫の嫉妬に苦しむ~
しかし、にも関わらずこの重要な印象派の女性画家であるマリー・ブラックモンは途中から絵筆を折ってしまいました。
これが女性画家の運命として悲劇的なところですね。
現代にも大いに通じるものがあるような気がします。
それは夫の嫉妬でした。
つまり、妻が印象派の画家として活躍するのが気にいらなかったという訳です。
ありそうな話しですよね。
自分自身は版画家で白黒で昔ながらの写実的な様式でやっているのに妻は色彩も鮮やかに筆致も大胆で正に印象派を代表する画家になりかねないくらいの実力を持った人物な訳です。
そうすると夫としては面白くないということになりました。
因みにこれが夫フェリックス・ブラックモンの版画です。
確かにこれは妻のほうが上手(うわて)と感じますね・汗・・
これはフェリックスとしては心中穏やかではなかったでしょう。
妻は自分と違う方向に伸びていってもっと斬新な感じで活躍するかもしれないという事態に耐えきれなかったようで次第に印象派の女性画家である妻を抑圧するようになってきました。
そんなこんなで彼女は夫との関係に疲れ切ってしまい最終的に自分が折れて制作を止めてしまうということになったのです。
その後は見かけ上は穏やかな家庭生活があったのかもしれませんが100%充実した人生だったとは思えませんね。
今ならここで離婚ということになるのかもしれませんが当時はそういう訳にもいかなかったのでしょうね。
しかし今でも経済的な不安から離婚に踏み切れない人もいるかもしれません。
一方美術界は才能ある人を失ったということになります。
これはとても残念なことですが日本でもこういう話しは美術界だけのことではないような気がします。
日本の将来はいかに女性の才能を生かすことができるかにかかっていると私は思うのですが、、
4人の印象派の女性画家たち~それぞれ違った人生~
これまで4人の印象派の女性画家をみてきましたがそれぞれ違った人生を歩んでいます。
ベルト・モリゾはとても恵まれた印象派の女性画家で夫に恵まれ、娘に恵まれ、経済的にも絵を売る必要は無く、一生裕福な状態で画家として充実した人生を送ることができました。
経済的な心配がないから思い切った表現が出来たのかもしれません。
ただ絵に描いていた可愛い娘の結婚を見届けることなく病気で亡くなったのは残念なことだったようです。
メアリ・カサットは独身を貫きながら印象派の女性画家として立派な仕事を成し遂げましたしフェミニズム運動にまで関わっていました。
そして印象派をアメリカに広める運動もし、ジャポニズムの影響も受けました。
エバ・ゴンザレスはマネの弟子として師に忠実な作風の絵を残しましたが30代半ばで世を去りました。
マリー・ブラックモンは非常に才能のある人物画家として可能性があったにも関わらず途中で筆を折ってしまいました。
まとめ
・パリでは19世紀末まで女性がプロの画家を目指して国立美術学校に入学することは許されなかった
・印象派の男性画家同様女性画家もブルジョア階級の人が多かった。
・ブルジョア階級の女性は行動範囲が限られモチーフも家族、女性の友達などに限られていた。
・メアリ・カサットはフェミニズム運動に目覚めていた。
・マリー・ブラックモンは優れた印象派の女性画家だったが夫の嫉妬のため制作を中断せざるを得なかったという女性特有の限界を感じた人だった。
以上印象派の女性画家について書いてみました。
参考になれば幸いです。
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