印象派といえば日本ではとても親しみを感じている人も多いのではないでしょうか。
特に有名な印象派の画家といえばマネ、モネ、ルノアール、シスレー、ピサロ、カイユボット、ドガ、バジール、セザンヌなどですが、モネ、ルノアール、ピサロ以外は皆ブルジョワ階級出身の人でモネ、ルノアール、ピサロを援助したりしていました。
女性の印象派の画家ベルト・モリゾ、メアリー・カサット、エバ・ゴンザレスもブルジョアジー出身です。
ふんだんにケチることなく絵の具を塗っていたんですね。
印象派の絵って絵の具めちゃくちゃ使いますよね。
ここでは男性の印象派の画家達がどういう時代背景のなかで誕生してきたのか、どういう人達でどんな風に独自の画風を確立していったのかということを主に東京大学名誉教授三浦篤さんの解説や他の資料をもとにまとめてみました。
女性の印象派の画家については別に書いていますのでそちらも是非ご覧ください。
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印象派の画家、実は殆どがブルジョワジー
印象派の画家が生まれた19世紀半ばとはどんな時代だったのか
印象派の画家達が生まれた19世紀半ばというのは「第二帝政期」でヨーロッパ中に産業革命の嵐が吹き荒れた時代です。
パリにも鉄道が敷かれ、上下水道が出来、公園が整備され、橋がかけられたりして今のパリの基本構造が出来、まさに近代都市に生まれ変わる時期でした。
街にはアパルトマンの建物が沢山建てられ、ブティックやカフェが入りました。
いつの時代も芸術作品というのはその時代を象徴して見せるものですから芸術作品を見れば逆にどんな時代だったかが分かります。
産業革命以前は油絵といえば主に宮廷のお抱え絵師などが「公務員的な」立場で顔料から油絵の具を作り出しながら主に「室内」で描いていたものでした。
しかも王侯貴族の肖像画が主なものでしたから「風景画」というのはレベルの低いものとされていたのです。
ところが産業革命で絵の具にも革命が起きて、チューブ入りの絵の具が発明されて、画家はその絵の具を持って汽車に乗って遠くにスケッチに行くことも出来るようになったわけです。
ですが主に印象派の画題となったのは当時のパリの様子、風景、光景でした。
ただそういうパリの市民の様子を描いたような絵は当時まだまだ評価は低いものでした。
印象派の画家が生まれたことの背景
有名な印象派の画家達はピサロとセザンヌ意外は皆パリ出身です。
しかもピサロ、モネ、ルノアール以外は皆裕福なブルジョワ階級出身だったことはあまり認識されていません。
革新的な仕事をするというのは「絶対にその絵を売らなくては生きていけない」という状態では出来ないわけです。
なので絵を必ずしも売らなくても生きていけるような家庭の出身でなければそういう前衛的なことをしてみようという発想はなかなか出来なかったわけです。
今の日本でも東京の美大に子どもを行かせるのは裕福な家庭でないと難しいものがあります。
ある程度生活に「遊び」の部分がないと芸術は成り立たないことが多い、、という事実ですね。
なので何か革新的なことがやりたければ今では何か「別の仕事をしながら」ということになります。
(私もそれで教室をやっているようなところもあります。)
かといって印象派の画家達も売れなくて良いと思っていた訳ではなく、売れるというのはその仕事が「社会的に認められる」ということなのでやはり売れることは望んでいました。
因みに主な画家達がどんな家庭に生まれたかというのはそれぞれの項に書いています。
印象派の画家達の画風~都会人のまなざし~
印象派の画家達に共通する画風は明るくて大胆な筆触を残す描き方ですね。
実はこの描き方が近代市民社会に合っていた、というのが後々の評価です。
しかも殆どの画家達がパリ出身ですから「都会人のまなざし」「パリジャンのまなざし」で描かれた絵、というのが印象派の重要な特徴なのです。
印象派とは
その当時パリで画家として認められるにはサロンに入選しなければならなかったのですが印象派の作風はなかなかサロンでは認められず殆どが落選の憂き目を見ています。
当時は大胆な筆触が「未完成」とみなされたりしていたようです。
それならば独自の展覧会をやろうといって始まったのが「印象派展」です。
主な印象派の画家たち
実は1回も印象派展に出してないエドゥアール・マネ
マネ(1832~1883)は法務官僚の豊かな家に生まれました。
エリートなお父さんですね。
マネといえば印象派、という風に分類されることが多いと思いますが実はこの人は微妙で1874年に始まったいわゆる印象派展には1回も出品していないんですね。
だけど印象派の画家達とは交友関係はありましたし、絵的にも印象派の先駆者というに相応しいと言われています。
しかし彼は国が主催する「サロン」で勝負をしたいという気持ちが非常に強かった人で室内で制作をすることが多かったのです。
マネは激動の時代にあって古典的で伝統的な描き方にも拘りながら古いパリと新しいパリの両方を描いた人と言われています。
女性のヌードにも挑戦しますが描き方そのものはラファエロなどの古典的な描き方を参照しながら現代的なテーマで描く、ということでいわゆる伝統を否定した他の印象派の画家達とは少し違います。
が、「草上の昼食」などいきなりピクニックの場面に裸の女性を描くなどということはとても奇抜でスキャンダラスだったので当然のことながらサロンには落選しています。
こういう人好きですね。
「オランピア」も高級娼婦を描いていますがこれも当時のパリの様子を物語ってますね。
当時のパリには金持ちに囲われて家まで買ってもらっていた高級娼婦が沢山いたと言われています。
ですが1870年代(第3共和政時代)にはマネも戸外で作品を描くことが多くなり、印象派の画家達の影響を受けながら制作するようになりました。
マネと印象派の画家達はお互いに影響を与えあいながら仕事を進めていったということのようです。
マネはパリの光と影を描いた人ですが死の前年に描かれた劇場のバーカウンターにいる女性はどこかうつろで寂しげでパリという都会に住む人達の孤独を描ききったと言われています。
この作品はサロンでも大好評だったようです。
印象派という言葉の元祖の画家 クロード・モネ
クロード・モネ(1840~1926)の父は最初食品卸売業を営んでいましたが経営が振るわず義兄が営んでいた船具商の共同経営者となっています。
モネは1860年代からバルビゾン派の画家達に学びながら画家としての人生をスタートさせました。
最初から印象派というわけではなかったのですね。
そのうち戸外(自然光)の中で描こうという風になっていき次第に光を的確に捉えることに集中していきました。
モネは実に30歳近くなるまで商売人である父親からの仕送り頼みに制作していたのですがサロンに落選するたびに仕送りを絶たれ、恋人カミーユとの結婚も許してもらえず、そんな中でカミーユを妊娠させるという無鉄砲さです。
私としては最初の妻カミーユが可哀そうでなりませんが、、。
この頃はたまに絵が売れることもありましたがモネ自身が浪費なこともあって貧しく、ルノアールが差し入れを持ってきてくれたり、バジールが絵を買ってくれたりしていたようです。
そうこうしながら印象派の技法を確立したのは1869年にラ・グルヌイエールという街で制作していたときでした。
印象派の技法というのは「筆触分割」といわれる技法です。
特にモネとルノアールは絵の具を混ぜ合わせることなく原色のまま置いて、それを離れて観たときに網膜上で混色して見えるというやり方を確立しました。
こうしたほうがより「明るい」ということを発見したのでした。
絵具というのは混ぜれば混ぜるほど暗くなっていくものですよね。
ラ・グルヌイエールで描かれた水面はそれまで見たことのないような瑞々しい印象で描かれました。
モネとルノアールは赤・青・黄の3原色を混ぜて作ってできる第1次混合色である橙、紫、緑の計6色程度で絵作りをしていきました。
そして1873年には「印象・日の出」という作品を描いています。
これが翌年1874年の第1回印象派展に出品され、これが「印象派」という名前の起源となりました。
モネは「水の画家」とも言われます。
光や空気や靄、煙などの自然現象、動く水面など不定形のモチーフがその瞬間自分の目に写ったビジョンを焼き付けるようにキャンバスに表していった人です。
こういう移ろいゆくものを捉える為に「連作」が描かれることにもなりました。
様々な条件のもとに同じモチーフを描く、という印象派のコンセプトを突き詰めていったわけですね。
その連作の集大成が「睡蓮」です。
モネの2番目の妻ウォシュデは資産家の娘でしたがモネ作品を画商に売り込む才能もありモネを大成功に導きました。
「睡蓮」の連作は後の抽象絵画の原型であるとも言われています。
印象派の画家の中では一番に売れ出した オーギュスト・ルノアール
オーギュスト・ルノアール(1841~1919)はモネの盟友のような人ですが貧しい仕立て職人の息子で職人階級出身です。
同じ印象派の画家でもモネと違い人物をモチーフにしました。
ところがここで問題が起きました。
印象派の筆触分割の描き方は風景画にはよく馴染むのですが人物に応用するには非常に難しいものがあったわけです。
人物の肌のなかに陽光を表わす斑点を描きだした初期の作品は印象派展の中では批判されていたと言います。
それで再びサロンに出品することもあったようです。
そこで評価されたのが「ジョルジュ・シャルパンティエ夫人と彼女の子どもたち」でした。
これで「ちゃんと肖像画も描ける」という評判が高まり、注文が来るようになり、印象派の画家の中では一番に売れるようになったと言われています。
その後は古典的なものを踏まえながら印象派的な裸婦を自由に描くという境地になっていきました。
自分は老いてやせ衰えていくのに描く女性達は益々若くふっくらとしていてウハウハだったのかもしれません。
これデッサン間違ってるんじゃないの?と言いたくなるくらい足(腿)が太くお尻が大きく、「若い女性の身体に全ての造形美が含まれる」というルノアールの感動がよくでていますね。
また小さい女の子の可愛らしさのようなものを表現させたらこの方は秀逸ですね。
印象派の風景詩人 アルフレッド・シスレー
アルフレッド・シスレー(1839~1899)はもともとイギリス人ですが高級服飾店を営む裕福な家庭に生まれました。
が長年スランス国籍を取得することは出来ませんでした。
この人もミレー風、コロー風などバルビゾン派から出発した風景画家です。
シスレーの風景は「水の画家」と言われるモネに比べて空の分量が多く、見上げるような角度で描く風景のなかに「大気」を感じさせる抒情的なものです。
シスレーは「印象派の風景詩人」と言って良いような「空の画家」と言われています。
「連作」に関しては意外とモネよりも早く取り組んでいて、モネのほうがシスレーから連作のヒントを得たのではないだろうかとも言われています。
風景のなかに人物が描かれることもありますがそれは点景としてで基本的には空、雲、風のそよぎ、などがシスレーが一番敏感だったところのようです。
本当に何というか趣があって一番部屋に飾りたい感じの作品ですよね。
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印象派の画家の長老格 カミーユ・ピサロ
カミーユ・ピサロ(1830~1903)はセント・トーマス島出身で貿易商の父のもと裕福な家庭に生まれ育ったユダヤ人でした。
モネは「水の画家」シスレーは「空と風の画家」、ピサロは「大地の画家」と言われています。
風景だけでなく田園、農園など大地に根差した人間の営みを描こうとした人です。
その中には「労働」の場面もあります。
また独特の造形感覚を感じさせる「赤い屋根」はかなり計算された構図です。
「ピサロ風印象派様式」ともいえるものを確立しているようです。
その意味ではセザンヌに近かったと言えます。
そのピサロが画風を変えることもありました。
印象派の画家の中では一番年長であったにも関わらず若い画家がやっていることを取り入れるというような新しいもの好きなところもありました。
1880年には「新印象派」の点描技法も取り入れていますが最終的には印象派の技法に戻ります。
晩年になってやっとパリの都市風景に目覚めるというちょっと変わった経歴の持ち主です。
印象派の画家の中では一番のリアリスト エドガー・ドガ
エドガー・ドガ(1834~1917)は銀行家の父のもとに生まれました。
やっぱり裕福なエリート家庭ですね。イタリアに留学もしています。
人物画家ですが古典や伝統をよく学びそういうものを大切にしていたところはマネに似ているところもあります。
しかも初期は歴史画を描いていました。
またアングルの教えを受けた上で肖像画を描くということをやっていて印象派の画家の中では一番「デッサン」というものに拘った人です。
印象派の画家達はデッサンよりも「色彩」に執着する人が多かった中で、、、ですね。
私的にはこの人の人物画がやはり一番抵抗なく見れる感じがします。
しかも辛辣で皮肉屋な一面もある人で人の肖像画も決して理想化して描くことはありませんでした。
マネ夫妻を描いた絵では婦人が美しく描かれたものではなくマネの怒りを買い、マネは夫人の顔の入った右4分の1を切り取ったというエピソードもあるくらいです。
これは同じ人物画家であるドガに対するライバル意識とみる人もいます。
マネ自身もでれーっとした感じでだらしなく描かれてますよね。
(だけど多分こんな感じだったんだろうなと思わせます・笑・)
またよくパリのオペラ座に通っていたのでオーケストラボックスのなかを描いたり踊り子を描いたりしていたわけですね。
その踊り子たちも練習場であくびをしていたり背中を搔きむしっていたり足をがばっと広げて休憩していたり。
また厳しそうな男の先生がやかましく指導していたりバイオリン弾きが伴奏していたり、何だか声や音楽まで聞こえてきそうです。
そしてもうひとつよく描いたのが競馬場でした。
踊り子と競馬場の共通点といえば「動き」でした。
訓練された人の動き、馬の動きの一瞬を捉えたかったのですね。
この「出走の失敗」という絵ですが、後にも先にもスタートの失敗を絵にした人はいないんじゃないかと思いますが。
騎士と馬のあせりのようなものが実によくでていますが周りの観客はどうってことない感じでこれも日常的な光景の一瞬を捉えている感じですね。
浴女にしても足をがばっと上げて浴槽に入っているところなどとてもリアルで決して美化したものではありません。
徹底したリアリティーとちょっと変わった画面構成を追求しているようなところが私は印象派の画家の中では一番好きです。
一番の資産家で才能もあった ギュスターブ・カイユボット
ギュスターブ・カイユボット(1848~1894)は大実業家の父のもとに生まれました。
パリ市内のとても立派なアパルトマンに住んでいた人物画家です。
特に「バルコニー」という作品群からは裕福な生活の一面が感じられます。
その中にいないと描けない光景ですよね。
ですがカイユボットはそれだけではなく面白い構図にも挑戦しています。
そういうアパルトマンから真下を見下ろすような視点で描いた「上から見た大通り」や「イエール川でボートを漕ぐ人々」などは当時大変大胆な発想だったと思われます。
まるで現代の写真のワンショットのような斬新な構図です。
1876年に描かれたヨーロッパ橋という作品も橋の鉄が画面の大部分を占めていてなかなか大胆な作品です。
そしてその中には色々な階層の人と犬までが描かれていて当時のパリの階級社会がよく表現されています。
本当に働かなくても良い人だったので素晴らしい別荘も持ち、趣味も色々あって、絵を描くことも趣味の延長線上にあったわけです。
またヨットの設計や園芸(温室も持っていた)、切手収集も趣味のうちでした。
そしてカイユボットは印象派を支援したパトロンという重要な役割を果たしました。
印象派展を立ち上げるというのにもお金がかかりますので色々資金面で支援したと言われています。
そして一番重要な支援は収集した印象派の作品を国家に寄贈したことでした。
ところがその当時はまだ印象派の評価が定まっておらず、アカデミー系の画家達には低評価でしかも色々な条件を付けていたので(直ぐにルーブルに並べるなど)計67点寄贈しようとしたのに対して国家が受け入れたのは40点だったと言われています。
大地主の息子で印象派を支援したフレデリックバジール
南仏出身の印象派の画家(1841~1870)で父はブドウ園を持つ大地主で元々医学を学ぶためにパリにでました。
がこの人は普仏戦争で命を落とした人で大変な若死にでした。
ですがその才能は素晴らしくもしも長生きしていたら印象派の主要画家になったであろうと言われています。
60年代にモネ・ルノアール・シスレーと知り合い、モネの「草上の昼食」のモデルを務めました。
バジールも金銭的に余裕があってパリに広いアパルトマンを持っていたのでモネやルノアールが困ったときに住まわせてやったりしました。
これはバジールのアトリエに印象派の面々が集まった場面が描かれています。
モネはバジールによく借金をしていたと言われています。
シスレーとも仲良くしていました。
「家族の集い」などは南フランスの名家の家族、一族とはこういうものかというのが分かるような作品です。
ルノアール同様自然光の中でどうやって人物を描くのかということを追求していた人です。
特に68年、69年、70年に戸外の人物を描いていた事に関してはバジールが一番ではなかったか?とも言われています。
まだ印象派の技法は特に確立していませんでしたが明るい画面追求をしていたことで印象派の画家の中に加えられる重要な画家です。
後期印象派といわれるポール・セザンヌ
南仏出身(1839~1906)で裕福な銀行家の父のもとに生まれました。
初期にはロマン主義風な作品を描いていたのですがピサロと知り合ってからガラッと変わりこの頃から印象派的な風景、色彩や筆触を取り入れるようになってきます。
1880年頃からは印象派を離れ、独自の描き方で「後期印象派」に分類されることもあります。
ですが当時はなかなか作品は評価されず、サロンにも17回落選し、勿論絵は売れず、父親の遺産を頼りに絵を描いていたと言われています。
セザンヌの作品は人物、風景、静物と多種多様ですがどういうものを描いても「セザンヌだな」と感じさせるものがあります。
「セザンヌ夫人の肖像」は色々な色や形で「構成する」という意識で描かれています。
写実的に人物を描くというよりは新しい絵画を構築しているといった感じです。
それは静物画においても同様です。
空間は歪んでいて物は色々な角度から見られていてテーブルの端の線も左右ずれているのでは?といった描き方です。
はっきり言ってすごく矛盾の多い絵で「現実をそのままには描かない」「自分の感覚で改変し、変形させる」という意識で描かれています。
全体的に平面性を感じさせるが奥行が無いわけではない、空間性と平面性がせめぎあっているというのがセザンヌ作品の特徴ですが全体的にはとても存在感を感じさせます。
この後は抽象的な筆触で描くようになります。
「女性大水浴図」は左右それぞれ女性も木々も三角形の構図となっています。
まず画面を構成してそこにモチーフを当てはめていく、色を入れていくという、今までの印象派の画家達とはかなり違ったアプローチをしています。
まさに20世紀の芸術に繋がっていく存在だったのですね。
まとめ
今回は主な印象派の画家達がどういう状況のなかでどういった印象派の手法を確立させていったのかということを見てきました。
主な印象派の画家の特徴を纏めてみます。
■エドゥアール・マネ 根っからのパリジャンで古典的な手法にも拘りながらサロンに出品し続けた人。パリの人達の光と影を描ききったと言われています。
■クロード・モネ 「印象派」という言い方の元祖となった人で色彩分割の手法を確立させた人。「水の画家」とも呼ばれ移ろいゆく自然をと捉えようとしました。
■オーギュスト・ルノアール 印象派の中の代表的な人物画家。肖像画家として一番に売れ始めました。若い女性の裸体には全ての造形的な要素が入っているとして生涯その裸体を極めました。
■アルフレッド・シスレー 「空の画家」と言われ抒情的な風景を描く、印象派の中では最も詩人的要素の強い人。
■カミーユ・ピサロ 「大地の画家」と呼ばれ長老格ですが若い人達の「新印象主義」を取り入れてみたり進取の気性の持ち主でした。
■ギュスターブ・カイユボット 大実業家を父に持つ資産家で印象派の人物画家ですが印象派の作品を収集して国に寄贈するなど印象派の画家達を支えながらその作品の普及に努めました。
■エドガー・ドガ アングルに学びデッサンを重視し、人物を理想化することなく辛辣にリアルに描きました。踊り子や馬の一瞬の動きを捉えようとした人です。
■フレデリック・バジール 南フランス出身で印象派の主な人物画家になるであろう期待されていたが若死にしました。この人も印象派の画家達を経済的に支えていました。
■ポール・セザンヌ やはり南フランス出身で「絵画を色や形で構成する」という意識で描いた人。20世紀美術への橋渡しのような役目を果たした人です。
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